小鹿田焼きは、遠く朝鮮の役のとき、筑前藩主黒田長政公が朝鮮から連れて来た陶工八山が慶長5年(1600年)直方市の鷹取山に開窯したことに起因するもので、八山の孫、八郎は高取焼第5窯(小石原焼き)を朝倉郡小石原村鼓に開基した。
そして40年後の宝永2年(1705年)に黒木十兵衛が小石原村の陶工柳瀬三右衛門氏をこの地に招き、李朝系の登り窯を築造したのである。伝統の素材で自然の雅趣に富んだ陶美を持つ製法が清流、静閉にこだまするここ小鹿田の人々によって受継がれ、今日に及んだのである。
昭和6年には「世界一流の民窯」との激賞を受け、昭和29年には世界的陶窯の大家バーナードリーチ氏が約1ヵ月間も小鹿田に滞在して製作に精進してから益々その声価を高め、今や小鹿田は民窯の代表的な存在となった。
そして昭和45年3月には、国の無形文化財として指定を受けたのである。
小鹿田を「おんた」と発音する。柳宗悦は『日田の皿山』で「おんだ」と呼んでいるが、正しくは濁らない。言い伝えでは『保元物語』に出てくる「鬼田与三」はこの地の出身であり、ここはもと「鬼田」と呼ばれていた。これがのちに「小鹿田」に転じたものという。
しかしなぜ「鬼田」が「小鹿田」となったかははっきりしない。
小鹿田焼の陶土の性質について言えば、きめが細かくコシが強く粘りもあるが、伸ばしにくい難点がある。耐火度は特に強くは無い。きめが細かく、収縮率も大きい為、割れやすく決して楽な性質ではない。
小鹿田焼きの窯元は10軒ある。一子相伝が開窯以来の習慣であり、今後も変ることは無い。 「小鹿田焼」は10軒の窯元共有のブランドであり、個人の名を入れる事をしない、展覧会等に個人名で出品しない等の取り決めがあるが、これらは美を意識した作品作りに戒めた柳宗悦の教えに基づいた物で、集団の知恵でもある。
共同体としての小鹿田を端的に示すのは共同窯元である、これは集落の中央にある八袋の登り窯で、現在は窯の場所に近い5人の窯元によって運用されている。 窯元が焼き物に直接関わることで共同作業をするのは、現在では年2回の土堀だけである。採掘された原土は等分に分けられるが、後の事は全部各窯元の作業に委ねられる。
小鹿田焼は全ての家族の労働によって造られる。土練り、轆轤挽き、窯炊きなど力と技を要する物は男の仕事、表方だとすれば、それを可能にしているのはみんな裏方、つまり女の仕事なのである。窯元の家族は一体であり、老若男女それぞれ分担に応じた役割を担って働く。機械を使わない、職人を雇用しない、弟子をとらないといった昔からのしきたりが守られている。
小鹿田の開窯は享保年間(1716〜1735)。どの年代かは特定できないものの小石原焼の中野窯の柳瀬三右衛門と、日田郡大鶴村字柳瀬の黒木十兵衛によって始められた。これに小鹿田地域の仙頭であった坂本家が土地の提供者として加わり、小鹿田焼の基礎が築かれた。
現在黒木姓三戸、柳瀬姓二戸、坂本姓四戸、それに黒木家から分家した小袋姓が一戸の計10軒の窯元があるが、江戸中期の開窯以来戸数の変動はあったにせよ、この三家態勢ということでは、今日までずっと変っていない。
現在確認できる江戸後期や明治期の古陶をみると、種類としては大甕、うんすけ、蓋付き甕、半胴甕、茶壷、徳利、鉢、皿その他があり、装飾技術としては打ち掛け、流し掛け、飴釉などがあり、現代の小鹿田焼とさほど変らないものが多い。
新たな展開を見せるようになったのは、大正末期から昭和初期にかけて「飛び鉋」や「打ち刷毛目」の技法が摂り入れられててからであり、また昭和六年、民芸運動を唱えた柳宗悦が皿山を訪れて、小鹿田焼が紹介されるようになって、徐々に広く世間に知られるようになっていった。それまで「日田もの」と一般に言われていた「小鹿田焼」の名称も、やっと市民権を得るようになった。
小鹿田と書いて「おんた」と読む。なんと変った読み方で、またなんと美しい響きを持つ名称であろうか。九州に数ある焼物のなかでもこんな不思議な名称の焼物は他に類をみない。一度覚えたら決して忘れそうも無いもの名称はいつ、どのようにして生まれたのだろうか。また、小鹿田の言葉にはどんな意味があるのだろうか。誰しも一度はきっとこんな疑問を抱いたに違いない。
小鹿田の里は日田市から北へ17キロ。夏に蛍の出る小野川の清流に沿って小野地区の田園地帯を約10キロ登りつめると小鹿田の皿山がある。標高430〜40メートル。北に英彦山があり、日田耶馬溪英彦山固定公園の南西部の一隅にある。地理的には北部九州のほぼ中央にあり、兄弟窯の小石原焼へは北西へ25キロ。
正式な住所は、大分県日田市源栄町皿山。いわゆる小鹿田の集落は、皿山から乙舞峠を越えて西へ約2キロのところにあります。小鹿田焼の里は、日田市から北へ17キロのところです。